Chikuwaのつぶやき

クラシック音楽、言語、ドイツ、物理など、雑食性です

「日本人の脳」角田忠信(大修館書店)

脳は左右に分かれていて、左脳は主に論理的、右脳は主として感覚的な処理を担っている...というのは聞くことの多い話です。この本ではそこをさらに深く探り、脳がこなす数多くの処理のうち「音」について、「日本人と西洋人の違い(正確には母語による違い)」や「音の発生源」によって左右の脳の働きがどう異なるのか、大脳生理学の立場から行われた実験・分析について、まとめられています。これを読んで音楽と言語について色々思ったことを徒然なるままに書きます。

脳の働きと音楽

気分転換に音楽を聴く、という行為は人類に普遍の習慣でしょう。何となくいい気分になるから聴いているのですが、科学的観点からも、脳を効果的にバランスよく休ませるためには、音楽鑑賞が有効と言えるようです。

音楽を聞く効用の一つとして、気分転換、心に安らぎを与えるなどが考えられるが、我々の日常は、あらゆる言語刺激によってとりまかれている。...言語情報の洪水と論理の過剰の中で、言語や論理からの逃避としての音楽の意味を、改めて見直すべきではなかろうか

日本人でもそうでなくても、ヴァイオリンをはじめとするオーケストラ楽器の音は主に右脳に働きかけるため、普段過労状態にある左脳への刺激を抑制し”左右のバランスをとる”ことに有効なのだとか。オーケストラやピアノ、弦楽四重奏などが「癒し」になるのはきちんと理由があったのです。(癒しになるのはクラシック音楽のほんの一部の作品だ、ということは強調したい。情熱・苦悩・愛・自己顕示欲など様々な感情に満ちた芸術なのです)

母音と脳の働き

日本人と西洋人(ヨーロッパの言語を母語とする人々)を比較した実験から判った最も大きな違いは、母音の受け止め方であるといいます。西洋人は子音を言語として左脳で処理するものの、話し言葉の母音、オペラ歌手の母音などは右脳(非言語脳)で聞いている。対して日本人は、子音でも母音でも、何なら笙や篠笛のような和楽器の音、そして夏や秋の虫の声も左脳(言語能)で聞いているそうです。これは母音の長さ(病院と美容院)や抑揚(橋と箸)で言葉を区別し、話相手の感情をも推察する日本語コミュニケーションには不可欠な能力なのでしょう。能経験者の知り合いの話によると、能ではセリフに伴って楽器が演奏されるが、その楽譜には口で歌えるような文字(セリフではない)が書かれているそうです。いざとなれば歌うこともできる。オペラ歌手+オーケストラ伴奏が右脳で聞かれるのとは逆に、日本の伝統芸能和楽器は言語脳(左脳)で聞かれる。オペラ歌手の母音はアなのかオなのかよく分からない、という経験が僕にもありますが、彼らにとって母音は「音」であって「言葉」ではないのです。

とにかく発声法を西洋の発声法のようにやりますと、母音の違いが非常に出にくい。日本の民族的な発声法でやると、母音が非常にはっきりと区別がつくわけです(p.143)

母音と音楽

また重要な脳の性質として、「言語脳が常に優位であり、非言語脳で器楽曲を聞いている際にラジオなどの音声が入ってくると、もろとも言語脳で処理されてしまう」というのがあるそうです。このことと歌との関係を考えてみたいと思います。注意しなければならないのは、英語(その他ヨーロッパ言語)のネイティブにとって母音は非言語的な音でしかないのに対し、日本人は大事な言葉として聞いている、ということです。

日本語の歌詞は母音が多すぎてロックやメタル音楽に向かない、という意見があります。実際、母音が多いとヴォーカルがビートを出すことが難しく、激しいギターのリフやドラムには調和しにくい印象があります。ただこの本を読んだ今考えてみると、そういう演奏面での理由に加えて、実は「日本語母語話者は、日本語の歌を非言語脳でうまく聞けない」という理由があるのかも知れません。器楽音は本来右脳に行くのに、母音たくさんの日本語が混じると左脳に持っていかれてしまう、ということです。
母音が多い言語にフィンランド語があり、実はフィンランド人も母音を言語脳で処理しているのではないか?と僕は予想しています。
Nightwishフィンランドのメタルバンドのうち世界で最も有名といえるバンドですが、彼らがフィンランドの民謡から取材しフィンランド語の歌詞をつけた曲にErämaan viimeinenがあります。祖国の民謡を素材として音楽を作る、かのシベリウスにも通ずるような信念を感じさせますし、ほの切ないながらもしなやかな強さを印象付ける曲想が素晴らしいと思います。しかし、彼らも「フィンランド語で曲を書くのは本当に難しい」としてほとんどの曲を英語で作っているのです。英語の方が売れるから、という卑俗な理由以外にも、「フィンランド語だと『音楽』ではなく『言葉』になってしまう」という葛藤があるのかも知れません。

左脳=論理、右脳=感情は日本人に当てはまらない

西欧人の窓枠が理性と自然との対立であるのと対照的に、日本人の窓枠は心と「もの」との対立となるから、日本人が客体化し易い対象は「もの」で表される物質に限られがちである...明治以来の日本の近代化の道は、...西欧哲学に基づいた近代の科学精神を学ぶよりは、より実利的な工学・理学の吸収に勉めてきた(p.366)

世界の分節について、西洋人の「左脳=理性、右脳=自然」という分け方を日本人はしていない、と筆者は指摘します。日本人は、人間の精神や哲学、言語、宗教を感情(心)から切り離して理性的に批評するという行為には不慣れであって、数学、機械工学、化学といった「もの」を対象とする学問を得意としてきた、というのです。これは政治、経済に留まらず、一般に共同体や組織の意思決定(=人間の心に依存する問題)のために理性的な議論をすることが不得手・奥手で疎まれがちだという現代日本人の課題にも通じるように思います。事実に基づいて理性的な判断を下せる・下すべき場面で、面子、体裁、忖度、遠慮という概念が理性的な思考を曇らせてしまうのは、日本人の脳にかなり深く刻まれた「文化」なのかも知れません。