Chikuwaのつぶやき

クラシック音楽、言語、ドイツ、物理など、雑食性です

英語論文をLaTeXで書くためのプリアンブル(\usepackage)

日本語でLaTeX文書を作るやり方はネットですぐ見つかるものの、英語で論文を書く際のテンプレートがあまり見つからなかった。どんなパッケージが必要となるか、まとめてみた。

Physical Review誌の場合、documentclassはこう

\documentclass[aps,prb,superscriptaddress,reprint]{revtex4-2}
% \documentclass[aps,superscriptaddress,preprint]{revtex4-2} %下書き段階ではこっち

特定の雑誌ではなくプレーンな文書を作るなら

\documentclass[a4paper]{article}

どんなパッケージを使うか。僕の結論は

\usepackage[pdftex]{graphicx,xcolor,hyperref}
\usepackage{float}
\usepackage{amsmath,amssymb,bm}
\usepackage{ascmac}
\usepackage{array}

これまでの使用では問題は出ていないが、hyperrefは様々なコマンドを書き換えるため、できるだけプリアンブルの後の方に書いた方がいいらしい。
これらパッケージは全てTeX Liveに入っているので、パッケージの追加インストールは不要。以下それぞれの役割をメモしておく。

英語ならpdfTeX

英語論文を書く際の特徴は

  1. 日本語フォントが不要
  2. ほぼ例外なく図を入れる
  3. 添削・推敲のため、文字に色を付けたい

などがある。日本語フォントを使いたい場合には、「TeXが.texファイルを.dviファイルへ変換」→「dvipdfmxドライバが.dviファイルを.pdfへ変換」と処理するしかない。図を入れる・色をつけるためには

\usepackage[dvipdfmx]{graphicx}
\usepackage[dvipsnames]{xcolor}

が必要となる(ちなみにcolorの進化版がxcolor。dvipsnamesオプションは定義されている色の選択肢を拡張する。詳しくはxcolorパッケージの取説を参照)。日本語は必要ない、英語だけで論文を書く、という場合はこの2段階の処理は不要で、pdftexを使えば.texを直接.pdfにしてくれる。従って

\usepackage[pdftex]{graphicx,xcolor}

とする。

ハイパー参照

式番号や参考文献へのリンク(PDFで開いているとき、クリックでその場所に飛べるあれ)は

\usepackage[pdftex]{hyperref}

で自動的にやってくれる。

図表の自動配置

figure環境、table環境を強化するパッケージ。より柔軟な図表の配置ができるらしい。

\usepackage{float}

なお、revtex4-2でコンパイルすると'Repair the float package'という警告が出るが、どうやらただのバグ(参照)で無害。

数式の記述

\usepackage{amsmath,amssymb,bm}

amsmathは数式の記述に特化したパッケージ(amsはAmerican Mathematical Societyの略)。amssymbを加えればAMSFontsが使えるようになる。そこに含まれる、物理でおそらく便利なのは、プランク定数\hbar。必要となれば黒板太文字\mathbb{}, ドイツ文字\mathfrak{}, Eulerフォント\mathscr{}でかっこいい文字も書ける。

bmパッケージは、\bm{}というコマンドを使ってギリシャ文字微分演算子\nablaを太字にするのに必要。

文章を箱で囲む

\usepackage{ascmac}

このパッケージを使い\begin{itembox}{タイトル} \end{itembox}とすると文章を囲むことができる。論文では使わないが、ノートには重宝する。

表を作る

罫線を引いて表を作るには、以下のパッケージが必要。

\usepackage{array}

A visit of Aliens - possible scenarios

What do you think will happen if aliens invade the Earth? This kind of topic sounds like science fiction, but we might be able to draw some possible scenarios if we think back our activities. Why do we human beings try to send space crafts to other planets? What are we trying to do after landing? Moving to other planets requires one of the most sophisticated technology and sufficient resources. Therefore, there should be strong reasons and purposes, which are similar to those of human beings.

The reason why alien comes to the Earth will be similar to that of human trying to go to outer space. First of all, many extraterrestrial lives can be curious about other planets. Looking at the blue (perhaps red or green) sky, some of them wonder if there are creatures on the planet, how they look like, or what they eat. Others might wonder the history of the universe and try to pose a hypothesis on when and how the planet took form. As a result, some ambitious guys (girls? we never know) decide to actually visit them. This is the moment when a technology evolution starts.

Moreover, they have another reason, which is more practical and related to their own existence: overpopulation. As is discussed among people on the Earth, this problem leads to food shortage. In search for more food or sufficient place to live and grow foods, aliens may come to the Earth. Food shortage does not seem to be a problem if they get energy from their inner system such as photosynthesis. However, they suffer from energy shortage when the sun provides less energy to the planet for some reason.

It is certain that an alien invasion affects our lives, but the results will vary significantly according to their purpose. They may come to the Earth to actually invade, but may visit it just for some scientific research. In the former case, they destroy the buildings that human made and create things they need. They kill people to avoid the human’s rebellion, which possibly brings forth human extinction. In the latter case, they will try not to contact with human beings in order not to affect the ecological system on the earth. They don’t do anything but to examine and gather data from soil, climate, animals and plants. We human beings do not realize at all that alien is going around on the earth; meanwhile, they go back to their home planet.

To conclude, alien invades the earth because they are curious about other planets and creature living there, or they need to get ample resources on the earth. The consequence differs depending on their purpose of their visit. In a sheer case, human civilization will diminish and we possibly die out, but in an optimistic story, they do not affect our lives at all. If so, alien seems rather closer to human than a threat in science fiction, doesn’t it?

「グローバル人材とは誰か 若者の海外経験の意味を問う」加藤・久木元(青弓社)

「グローバル人材(global human resources)」とは何か。国政でも、僕の所属する大学でも、マスコミでも声高に喧伝される「人材」であるが、一体どんな人材を指すのだろうと、疑問に思っていた。この本は、

  • 海外経験(留学、インターンからワーホリ、現地就職、駐在、移民まで)に挑んでいる、あるいは滞在を終え帰国した日本人たち
  • 国外に展開する日本企業や、そこへ日本人を斡旋するHR(人材活用)業界の人々

への調査結果をもとに、「若者の海外経験とキャリア形成の実情はどうなのか」「それに対する日本社会の受け止め方はどうか」「若者の海外経験の意義とは」といった疑問を徹底的に検証する。コンサルが片手間に書いたようなビジネスHow to本ではなく、文化人類学社会学の学者の長年の研究の成果であり、大変好感を持つとともに、将来へ向けて背中を押された。

海外経験者の分類

一口に「海外経験をした」といっても、体験内容とその果実は人それぞれ異なる。著者は海外経験の成果を主観的な成長仕事に関わる前進に分類する。

  1. 主観的な成長=視野が広がった、積極性や異文化適応能力、外国語能力など
  2. 仕事に関わる前進=「やりたいこと」の明確化、就職や転職、昇進・昇給、仕事における人脈の構築

そしてこの二つのベクトルで自己の体験を振り返ってもらうと、被験者を「どちらも高い」「前者のみ高い」「後者のみ高い」「どちらも低い」という4つの群に分けることができる。現地で何をしていたかによって海外経験の果実も異なる傾向を示すことが、詳細なデータをもとに議論される。

日本社会の受け止め方

若者(20〜30代)の海外進出自体は、1980年代の中曽根政権・バブル期頃から自発的要因および政府の方針によって増加していたらしい。それなのに2010年代にも「新たな課題が生じた」と言わんばかりに議論がなされている。これまでに何十万と羽ばたいた日本人の経験はどこへ行ってしまったのか。

若者の海外経験をめぐる議論は、結局のところ、規範的なキャリアモデルが根強く規範視され続けているために、多様なキャリアを歩む例が増えつつあることに対して、日本社会のさまざまな側面で対応が追いついていないことに由来している。(p.52)

海外経験者を今だに「異質者」「レールを外れた者」という色眼鏡で見て、彼ら・彼女らの持つ力を活かそうという土壌が整っていない企業があるとのことである。新卒で入社して定年まで働くことで自動的に昇進・昇級して、、、という「型」を数年外れたからというだけで「出世」のルートから外すような会社はこちらから御免である。もちろん、日本で働く以上は日本のビジネスマナーに従う必要があり、それは海外経験者が新たに馴染んでいかなければならないのだが、マナーがなっていないからといってその人の専門性を見ないでいては、会社側も人材不足に陥ると思う。

「仕事こそ人生」「仕事が自分を形成する」という意識

コミュニティを構成する人が均質であればあるほど落ち着き、心地よく感じるものである。だがそれは同時に、「相手も自分と同じである」ことを暗に期待するものであり、異なる意見を思いのままに発言する・実行することは良しとされない。日本は、本音や論理的な答えを提示することはかなりdiscourageされる社会だ。そのような環境にいれば、「自分は何をしたいのか」「現状をどう変えていきたいのか」を考えることが少なくなっていく。

それに加え、「働かざる者食うべからず」の言葉を「仕事こそが人生だ」のような意味に受け取り「社会人=会社員」のイメージを持って大学を卒業する人は数多い。「これから懲役40年が始まります」と冗談混じりに言いながら卒業していった研究室の先輩が思い出される。

このように日本では「仕事こそが人生の生きがい」だという固定観念が強い。著者は欧米諸国との価値観の違いを挙げる:

もう一つの要因として考えられるのが、「就職」や「職場」の社会的な意味合いの違いである。(略)日本では「就職をして職場社会の一員となること」、つまり「社会=職場」への完全参入が「大人になること」と見なされてきたという

思い返してみれば確かにドイツでも、大人になることは、個人が自我を持ち、義務と権利を遂行するようになることだと見なされていたように思う。日本では一方、マナーを弁え、職場に属し、職場というコミュニティから認められたりすること、社会の「輪」に入ることを成熟の証しとする文化がある。オーストラリアで人材派遣ビジネスを営む日本人へのインタビューを通し、著者は次のようなオーストラリアにおける価値観を見出す:

人はそれぞれ異なる「自己」「自分」をもっているのだから、(略)管理職・専門職として、労働時間をいとわず仕事に没頭する者もいれば、労働は最小限にとどめ、あとの時間を余暇に使う者もいる。そして、このように人生での仕事の位置づけや、仕事への態度が人によってバラバラであること自体が「当然」と見なされる(p.123)

グローバル市民(global citizen

「グローバル人材」という言葉。著者らは、「有力経済団体や政府機関の間でも定義が異なるうえに、現場(企業)の人びとにとっても、言葉が先行し、実質不明な「記号」である(p.233)」ところのグローバル人材という概念に固執するのではなく、グローバル市民(global citizenを目指すべき、と若者にエールを送る。

あたかも国家に帰属するかのように「地球または人類全体」に帰属し、「個人」として、「地球または人類全体」から何かの恩恵を受ける「権利」をもつと同時に、「義務」をも担っている自覚がある者...
...「市民」が個人の自立性と主体性を前提にする概念であるのに対し、人材(human resources)は… 使う/使われるの関係で、使う側からみた呼び方である(p.265)

思えばGlobalismという言葉は、実に様々な意味に解釈できる。僕はCosmopolitanism(地球市民、国境の壁なく、人類はただ一つの共同体に属しているという考え)の意味合いで捉えていたけど、多くの文脈では、米国を筆頭とする経済のNeoliberalism(新自由主義規制緩和による市場の自由競争が最適な結果を生む)を指すらしい。global人材というキーワードは日本政府・日本企業・大学教育者・マスコミの間でごちゃ混ぜに使われ、global人材至上主義者が様々な施策を実行する一方で嫌悪感を抱く人も多くなった。Neoliberalismの文脈では、global人材=ある一つの企業の国際的競争力を向上させる働き手、という意味である 一方、global citizenは、企業に必要とされるか否かとは無関係。どこの国に住んでいようと、どんな企業に勤めていようと、「自分がいまいる場やコミュニティをよりよくしようと考え行動する(p.284)」人だ。僕は、国家も人種も境目を作らず、みんなと対話する・みんなで協力する姿勢を大事にしたい。ドイツ首相メルケルは、multiliteralism(多国間主義)という言葉を使っている。
Angela Merkel - Die Kanzlerin im DW-Interview | DW Nachrichten - YouTube


「市民」となるためには、自我を持ち合わせていることも求められる。

「権利」には「義務」が伴うように、「グローバル市民」は、自分が今いる特定の場所やコミュニティの問題に関心を持ち、状況を少しでもよくするために自分ができることはないか考え、行動しようという自覚をもつ(p.282)

このような活動は欧米諸国の義務と権利の概念に基づく、と著者はしているが、仏教の「功徳」(現世・来世に幸福をもたらす元になる善行)の精神によっても良いだろうと思う。

(日本から海外へ移ったグローバル市民たちは)地球上の別の土地に移っても、同じようにそこを「自分のコミュニティ」として、自分にできることはないかと考えて行動するだろう。すなわち、どこにいても「責務を果たそうとする者」だろう。またこのような人々は、自分の出身国のよい印象を現地で広めているだけでなく、出身国から来る人々を支えてもいる。(p.286)

グローバル市民は必ずしも経済的に直接日本の発展に寄与している訳ではないが、今いる場所をより良くするための活動を重ねる結果として、着実に日本と世界の関係をより良いものにしている。多国籍企業のビジネスマンだけが「日本を牽引するグローバル人材」ではない。そう太鼓判を押されたようで、「自分にできることをやってやろう」と思えるようになった。とても刺激的な本なので、気になる方は読んでみることをお勧めします。

夏目漱石「現代日本の開化」

青空文庫から読むことができます:
www.aozora.gr.jp

開化とは

漱石は「開化」を「人間活力の発現」と定義し、活力が外界の刺激に対してどう反応するかによって2種類に分類した。

  1. 消極的開化 ー 外から課される「義務」に対し、活力を節約しようとする方向の発展
  2. 積極的開化 ー 「やりたいこと」に対し、進んで活力を消耗する方向の発展

人間社会が抱える、慢性的な病

我々人間は生来、この両方向の発展を追求したがる質だから、古来より絶え間なくこの変化を繰り返してきた。しかし幸福の程度は上がっていないし、苦しみは軽減されていない。開化は次々に競争を生み、堂々巡りになる。かえって不安を増大させることも多い。

開国と明治維新

人間個人や集団の意識というものは、一点からある一点、そして次の点へと、弧を描きながら推移していくものである。ある考えを使い古し飽きたら別の考えへ引っ越す、というように、その過程は内部欲求に従って発生するのが自然である。しかし日本の開国と維新は、既に西洋で長い時間をかけて錬成された最先端の考え方を、外から突然持ち込んで行われ、社会はここ四五十年間、数段飛ばしで急いできた。短期間で通り過ぎてしまった波へは未練を感じ、今ある波には居候しているような空虚感を覚える。器械的に覚えた礼式は、自然と内に発酵して醸された様式や概念とは対極にあるのであり、我々は「皮相上滑りの開化」を経験しているに過ぎない。できるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に、自ら咀嚼しながら変化していくしかないであろう、と漱石は締めくくる。

2020年

現在の日本は「開化」しただろうか?

「日本人の脳」角田忠信(大修館書店)

脳は左右に分かれていて、左脳は主に論理的、右脳は主として感覚的な処理を担っている...というのは聞くことの多い話です。この本ではそこをさらに深く探り、脳がこなす数多くの処理のうち「音」について、「日本人と西洋人の違い(正確には母語による違い)」や「音の発生源」によって左右の脳の働きがどう異なるのか、大脳生理学の立場から行われた実験・分析について、まとめられています。これを読んで音楽と言語について色々思ったことを徒然なるままに書きます。

脳の働きと音楽

気分転換に音楽を聴く、という行為は人類に普遍の習慣でしょう。何となくいい気分になるから聴いているのですが、科学的観点からも、脳を効果的にバランスよく休ませるためには、音楽鑑賞が有効と言えるようです。

音楽を聞く効用の一つとして、気分転換、心に安らぎを与えるなどが考えられるが、我々の日常は、あらゆる言語刺激によってとりまかれている。...言語情報の洪水と論理の過剰の中で、言語や論理からの逃避としての音楽の意味を、改めて見直すべきではなかろうか

日本人でもそうでなくても、ヴァイオリンをはじめとするオーケストラ楽器の音は主に右脳に働きかけるため、普段過労状態にある左脳への刺激を抑制し”左右のバランスをとる”ことに有効なのだとか。オーケストラやピアノ、弦楽四重奏などが「癒し」になるのはきちんと理由があったのです。(癒しになるのはクラシック音楽のほんの一部の作品だ、ということは強調したい。情熱・苦悩・愛・自己顕示欲など様々な感情に満ちた芸術なのです)

母音と脳の働き

日本人と西洋人(ヨーロッパの言語を母語とする人々)を比較した実験から判った最も大きな違いは、母音の受け止め方であるといいます。西洋人は子音を言語として左脳で処理するものの、話し言葉の母音、オペラ歌手の母音などは右脳(非言語脳)で聞いている。対して日本人は、子音でも母音でも、何なら笙や篠笛のような和楽器の音、そして夏や秋の虫の声も左脳(言語能)で聞いているそうです。これは母音の長さ(病院と美容院)や抑揚(橋と箸)で言葉を区別し、話相手の感情をも推察する日本語コミュニケーションには不可欠な能力なのでしょう。能経験者の知り合いの話によると、能ではセリフに伴って楽器が演奏されるが、その楽譜には口で歌えるような文字(セリフではない)が書かれているそうです。いざとなれば歌うこともできる。オペラ歌手+オーケストラ伴奏が右脳で聞かれるのとは逆に、日本の伝統芸能和楽器は言語脳(左脳)で聞かれる。オペラ歌手の母音はアなのかオなのかよく分からない、という経験が僕にもありますが、彼らにとって母音は「音」であって「言葉」ではないのです。

とにかく発声法を西洋の発声法のようにやりますと、母音の違いが非常に出にくい。日本の民族的な発声法でやると、母音が非常にはっきりと区別がつくわけです(p.143)

母音と音楽

また重要な脳の性質として、「言語脳が常に優位であり、非言語脳で器楽曲を聞いている際にラジオなどの音声が入ってくると、もろとも言語脳で処理されてしまう」というのがあるそうです。このことと歌との関係を考えてみたいと思います。注意しなければならないのは、英語(その他ヨーロッパ言語)のネイティブにとって母音は非言語的な音でしかないのに対し、日本人は大事な言葉として聞いている、ということです。

日本語の歌詞は母音が多すぎてロックやメタル音楽に向かない、という意見があります。実際、母音が多いとヴォーカルがビートを出すことが難しく、激しいギターのリフやドラムには調和しにくい印象があります。ただこの本を読んだ今考えてみると、そういう演奏面での理由に加えて、実は「日本語母語話者は、日本語の歌を非言語脳でうまく聞けない」という理由があるのかも知れません。器楽音は本来右脳に行くのに、母音たくさんの日本語が混じると左脳に持っていかれてしまう、ということです。
母音が多い言語にフィンランド語があり、実はフィンランド人も母音を言語脳で処理しているのではないか?と僕は予想しています。
Nightwishフィンランドのメタルバンドのうち世界で最も有名といえるバンドですが、彼らがフィンランドの民謡から取材しフィンランド語の歌詞をつけた曲にErämaan viimeinenがあります。祖国の民謡を素材として音楽を作る、かのシベリウスにも通ずるような信念を感じさせますし、ほの切ないながらもしなやかな強さを印象付ける曲想が素晴らしいと思います。しかし、彼らも「フィンランド語で曲を書くのは本当に難しい」としてほとんどの曲を英語で作っているのです。英語の方が売れるから、という卑俗な理由以外にも、「フィンランド語だと『音楽』ではなく『言葉』になってしまう」という葛藤があるのかも知れません。

左脳=論理、右脳=感情は日本人に当てはまらない

西欧人の窓枠が理性と自然との対立であるのと対照的に、日本人の窓枠は心と「もの」との対立となるから、日本人が客体化し易い対象は「もの」で表される物質に限られがちである...明治以来の日本の近代化の道は、...西欧哲学に基づいた近代の科学精神を学ぶよりは、より実利的な工学・理学の吸収に勉めてきた(p.366)

世界の分節について、西洋人の「左脳=理性、右脳=自然」という分け方を日本人はしていない、と筆者は指摘します。日本人は、人間の精神や哲学、言語、宗教を感情(心)から切り離して理性的に批評するという行為には不慣れであって、数学、機械工学、化学といった「もの」を対象とする学問を得意としてきた、というのです。これは政治、経済に留まらず、一般に共同体や組織の意思決定(=人間の心に依存する問題)のために理性的な議論をすることが不得手・奥手で疎まれがちだという現代日本人の課題にも通じるように思います。事実に基づいて理性的な判断を下せる・下すべき場面で、面子、体裁、忖度、遠慮という概念が理性的な思考を曇らせてしまうのは、日本人の脳にかなり深く刻まれた「文化」なのかも知れません。

MacからWindows PCへリモートデスクトップ デュアルディスプレイ

Macを自宅に所有していて、職場のWindowsにリモート接続している場合に、2つ以上のディスプレイを利用して快適にテレワークしたい。うまくいった方法のまとめ。

環境

Microsoft Remote Desktop version 10.4.0
自宅:MacBook Pro/ MacOS Catalina
職場:Windows 10

設定

Microsoft Remote Desktopを開き、接続したいPCにポインタをかざすと現れる、編集(筆マーク)ボタンをクリックする。
f:id:Chikuwa04:20200816092640p:plain

DisplayタブでUse all monitorsにチェックを入れる。
f:id:Chikuwa04:20200816093229p:plain

Retina displayなので、Optimize for Retina displaysにもチェックを入れた。なんとなく画質が上がって見やすくなった気がする。

Kriegsverbrechen im Zweiten Weltkrieg

Ich habe heute dieses Video angeschaut:
www.youtube.com

Vom 14'25~ äußert er eine wichtige (und richtige!) Analyse:

"Bis heute sind allerdings die Kriegsverbrechen und der Krieg überhaupt nicht komplett aufgearbeitet in Japan. Deshalb ist das Verhältnis Japans zu seinen Nachbarn auch oft ziemlich angespannt."

In den vergangen Jahren ist Rechtsextremismus in Deutschland etwas großer geworden. Die AfD ist aber immer noch in der Minderheit und mir scheint, dass das Verhältnis Deutschlands zu anderen europäischen Ländern viel weniger angespannt wird wegen des Kriegsverbrechens. Wie läuft die Beziehung zurzeit mit euren Nachbarn, was das Kriegsverbrechen angeht? Was war der Wendepunkt bzw. ein großer Schritt daran in der Geschichte nach dem Zweiten Weltkrieg?