Chikuwaのつぶやき

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「グローバル人材とは誰か 若者の海外経験の意味を問う」加藤・久木元(青弓社)

「グローバル人材(global human resources)」とは何か。国政でも、僕の所属する大学でも、マスコミでも声高に喧伝される「人材」であるが、一体どんな人材を指すのだろうと、疑問に思っていた。この本は、

  • 海外経験(留学、インターンからワーホリ、現地就職、駐在、移民まで)に挑んでいる、あるいは滞在を終え帰国した日本人たち
  • 国外に展開する日本企業や、そこへ日本人を斡旋するHR(人材活用)業界の人々

への調査結果をもとに、「若者の海外経験とキャリア形成の実情はどうなのか」「それに対する日本社会の受け止め方はどうか」「若者の海外経験の意義とは」といった疑問を徹底的に検証する。コンサルが片手間に書いたようなビジネスHow to本ではなく、文化人類学社会学の学者の長年の研究の成果であり、大変好感を持つとともに、将来へ向けて背中を押された。

海外経験者の分類

一口に「海外経験をした」といっても、体験内容とその果実は人それぞれ異なる。著者は海外経験の成果を主観的な成長仕事に関わる前進に分類する。

  1. 主観的な成長=視野が広がった、積極性や異文化適応能力、外国語能力など
  2. 仕事に関わる前進=「やりたいこと」の明確化、就職や転職、昇進・昇給、仕事における人脈の構築

そしてこの二つのベクトルで自己の体験を振り返ってもらうと、被験者を「どちらも高い」「前者のみ高い」「後者のみ高い」「どちらも低い」という4つの群に分けることができる。現地で何をしていたかによって海外経験の果実も異なる傾向を示すことが、詳細なデータをもとに議論される。

日本社会の受け止め方

若者(20〜30代)の海外進出自体は、1980年代の中曽根政権・バブル期頃から自発的要因および政府の方針によって増加していたらしい。それなのに2010年代にも「新たな課題が生じた」と言わんばかりに議論がなされている。これまでに何十万と羽ばたいた日本人の経験はどこへ行ってしまったのか。

若者の海外経験をめぐる議論は、結局のところ、規範的なキャリアモデルが根強く規範視され続けているために、多様なキャリアを歩む例が増えつつあることに対して、日本社会のさまざまな側面で対応が追いついていないことに由来している。(p.52)

海外経験者を今だに「異質者」「レールを外れた者」という色眼鏡で見て、彼ら・彼女らの持つ力を活かそうという土壌が整っていない企業があるとのことである。新卒で入社して定年まで働くことで自動的に昇進・昇級して、、、という「型」を数年外れたからというだけで「出世」のルートから外すような会社はこちらから御免である。もちろん、日本で働く以上は日本のビジネスマナーに従う必要があり、それは海外経験者が新たに馴染んでいかなければならないのだが、マナーがなっていないからといってその人の専門性を見ないでいては、会社側も人材不足に陥ると思う。

「仕事こそ人生」「仕事が自分を形成する」という意識

コミュニティを構成する人が均質であればあるほど落ち着き、心地よく感じるものである。だがそれは同時に、「相手も自分と同じである」ことを暗に期待するものであり、異なる意見を思いのままに発言する・実行することは良しとされない。日本は、本音や論理的な答えを提示することはかなりdiscourageされる社会だ。そのような環境にいれば、「自分は何をしたいのか」「現状をどう変えていきたいのか」を考えることが少なくなっていく。

それに加え、「働かざる者食うべからず」の言葉を「仕事こそが人生だ」のような意味に受け取り「社会人=会社員」のイメージを持って大学を卒業する人は数多い。「これから懲役40年が始まります」と冗談混じりに言いながら卒業していった研究室の先輩が思い出される。

このように日本では「仕事こそが人生の生きがい」だという固定観念が強い。著者は欧米諸国との価値観の違いを挙げる:

もう一つの要因として考えられるのが、「就職」や「職場」の社会的な意味合いの違いである。(略)日本では「就職をして職場社会の一員となること」、つまり「社会=職場」への完全参入が「大人になること」と見なされてきたという

思い返してみれば確かにドイツでも、大人になることは、個人が自我を持ち、義務と権利を遂行するようになることだと見なされていたように思う。日本では一方、マナーを弁え、職場に属し、職場というコミュニティから認められたりすること、社会の「輪」に入ることを成熟の証しとする文化がある。オーストラリアで人材派遣ビジネスを営む日本人へのインタビューを通し、著者は次のようなオーストラリアにおける価値観を見出す:

人はそれぞれ異なる「自己」「自分」をもっているのだから、(略)管理職・専門職として、労働時間をいとわず仕事に没頭する者もいれば、労働は最小限にとどめ、あとの時間を余暇に使う者もいる。そして、このように人生での仕事の位置づけや、仕事への態度が人によってバラバラであること自体が「当然」と見なされる(p.123)

グローバル市民(global citizen

「グローバル人材」という言葉。著者らは、「有力経済団体や政府機関の間でも定義が異なるうえに、現場(企業)の人びとにとっても、言葉が先行し、実質不明な「記号」である(p.233)」ところのグローバル人材という概念に固執するのではなく、グローバル市民(global citizenを目指すべき、と若者にエールを送る。

あたかも国家に帰属するかのように「地球または人類全体」に帰属し、「個人」として、「地球または人類全体」から何かの恩恵を受ける「権利」をもつと同時に、「義務」をも担っている自覚がある者...
...「市民」が個人の自立性と主体性を前提にする概念であるのに対し、人材(human resources)は… 使う/使われるの関係で、使う側からみた呼び方である(p.265)

思えばGlobalismという言葉は、実に様々な意味に解釈できる。僕はCosmopolitanism(地球市民、国境の壁なく、人類はただ一つの共同体に属しているという考え)の意味合いで捉えていたけど、多くの文脈では、米国を筆頭とする経済のNeoliberalism(新自由主義規制緩和による市場の自由競争が最適な結果を生む)を指すらしい。global人材というキーワードは日本政府・日本企業・大学教育者・マスコミの間でごちゃ混ぜに使われ、global人材至上主義者が様々な施策を実行する一方で嫌悪感を抱く人も多くなった。Neoliberalismの文脈では、global人材=ある一つの企業の国際的競争力を向上させる働き手、という意味である 一方、global citizenは、企業に必要とされるか否かとは無関係。どこの国に住んでいようと、どんな企業に勤めていようと、「自分がいまいる場やコミュニティをよりよくしようと考え行動する(p.284)」人だ。僕は、国家も人種も境目を作らず、みんなと対話する・みんなで協力する姿勢を大事にしたい。

「市民」となるためには、自我を持ち合わせていることも求められる。

「権利」には「義務」が伴うように、「グローバル市民」は、自分が今いる特定の場所やコミュニティの問題に関心を持ち、状況を少しでもよくするために自分ができることはないか考え、行動しようという自覚をもつ(p.282)

このような活動は欧米諸国の義務と権利の概念に基づく、と著者はしているが、仏教の「功徳」(現世・来世に幸福をもたらす元になる善行)の精神によっても良いだろうと思う。

(日本から海外へ移ったグローバル市民たちは)地球上の別の土地に移っても、同じようにそこを「自分のコミュニティ」として、自分にできることはないかと考えて行動するだろう。すなわち、どこにいても「責務を果たそうとする者」だろう。またこのような人々は、自分の出身国のよい印象を現地で広めているだけでなく、出身国から来る人々を支えてもいる。(p.286)

グローバル市民は必ずしも経済的に直接日本の発展に寄与している訳ではないが、今いる場所をより良くするための活動を重ねる結果として、着実に日本と世界の関係をより良いものにしている。多国籍企業のビジネスマンだけが「日本を牽引するグローバル人材」ではない。そう太鼓判を押されたようで、「自分にできることをやってやろう」と思えるようになった。とても刺激的な本なので、気になる方は読んでみることをお勧めします。