Chikuwaのつぶやき

クラシック音楽、言語、ドイツ、物理など、雑食性です

コロナ時代に考える、日本の「和」文化

災害と集団意識

日本では、自分はあくまで共同体の一部である、旅客船日本号の乗員であるという認識が、無意識に共有されている。欧米諸国に広く普及している個人主義では、各々は個別の小型船に乗っていて、何か共通の目標や敵が現れた時に「連帯 solidarity」を喚起して団結する*1。各個人が何をするかは基本的に個人が決めることであって、その自由が剥奪されることに対しては、歴史的な抵抗感があるのかもしれない。日本では逆に、強いリーダーが声高に団結を求めることは歴史的に抵抗感がある(政府トップや各都道府県知事の発言はあくまで「ご協力をお願いします」というスタンスだ)。しかし草の根レベルでは「自分が勝手な行動をすると周囲に迷惑がかかるから」「周囲の人の目が気になる」「みんなが苦労しているのだから自分も我慢しよう」「我々が行動を自粛しているのにあいつは勝手なことをしてけしからん(自粛警察)」と考える人が多いように思う。自然災害に遭って共同体全体で痛み分けするような状況では、これは大きな混乱を起こさない有利なメンタリティだ。震災や水害等の際の避難所の配給もそうだし、現在のコロナ情勢でも、法律で罰則を定めなくとも人々が行動変容を受け入れている。イタリア・イギリス・アメリカなどと比べて桁違いにコロナの被害が少なく済んでいる理由の一つだろう。集団意識は災害の多い日本において、1000年以上かけて自然と培われた術であり、こういうのを固有の文化というのかもしれない。

「和」という概念の危険性について

一方で、和をもって貴しとなす、平和、昭和、令和、調和、みんな和をありがたがるけど、本当に大丈夫なのだろうか?「和」を考えるとき僕らは無意識のうちに「輪」も考えていると思う。きっと大和言葉では「わ」という一つの概念だったんじゃないか。「輪」を作るには内と外を区別する境界線を引かなきゃいけない。しかも論理的な討論を通して共通見解を敷くのではなく「空気」で判断、異端と判断された人は仲間内の阿吽の呼吸でコミュニティの外に追い出される。輪の中では同調することが求められる。結果としてその中には同質な人しかいないから、自然に物事は一見滞りなく進んでいくのだけれど、その進んでいく方向が必ずしも科学的・倫理的正しさに裏付けされていない。昔から日本人のコミュニティはこういう風にやりくりしてきていて、例えば忖度とか迎合という言葉に表れていると思う。上司が帰宅するまでは部下は退社しづらいとか、非合理的あるいは違法でさえあるけれど、他人の面子を保つために行動選択したりとか、学校で友達の輪からあぶれ辛い思いをする人も、政府に迎合し偏った報道のあり方も…こういう集団意識が日本社会に負の影響をもたらしているのは事実であり、物事が論理的な議論を通さずに進んでいく危険性を、真面目に考えなきゃいけない。もちろん一部の人はそれに迎合せず声を上げているのだけれど、多数決で決まる民主主義を採用している以上なかなか表に出てこない*2。デモを起こす人に対して、自分の意見を声高に主張する例外的な人種、というレッテルが貼られてしまうのもよくない。いろいろな問題が噴出している現在、ただ周囲と同じように振る舞うのではなくて、本当に一人一人が頭で考えなきゃいけない。集団の調和を保つ意識と批判的な思考の両方を兼ね備えた共同体は、どんな苦難にも正々堂々と立ち向かえるのではないだろうか。

*1:ドイツのメルケル首相は、例えばPodcastでSolidarität in der Gesellschaft「社会の連帯」に言及している。3'03あたりで「不要不急のイベントは中止せざるを得ない。私たちはこうすることで人々を守り、社会の連帯を示すことができる」と言っている。

*2:この状況を打破しつつあるのが、YouTubeの動画配信。例えば現代貨幣理論(MMT)の中野剛志氏、西田昌司議員他は精力的に情報を発信し、それが専門外の一般市民の間でも共感を呼んでいる。YouTubeはただ面白動画や音楽を楽しむためのプラットフォームではもはやない。