Chikuwaのつぶやき

クラシック音楽、言語、ドイツ、物理など、雑食性です

SDGsの背景

SDGs(持続可能な開発のための目標)は国連が採択した、世界をよりよくするための開発目標。企業理念やビジネスの場面でも注目を集めているが、なぜ掲げられているような17項目が選ばれたのだろうかと、考えてみる。

真理探究(基礎科学)や人文学的教養(芸術)が好きな僕は、福沢諭吉学問のすすめ』を好きになれない。完全に実学に振り切っているからだ。(第1次)産業革命、殖産興業、ヨーロッパの帝国と対等にならなければ、という時代には実学が重要だったろうが、彼はその後1世紀あまりの社会の発展を知らない。社会的インフラ(ソフト・ハード両方)が整い、多くの人間が大した痛みもなく人生を送れるようになった現代の日本や西ヨーロッパの大部分において、単なる殖産興業は社会の発展にも個人の幸福にも直接は結びつかない。GDPが増えれば人がより幸せになれたのは昔の話だ。第1次世界大戦までの産業革命帝国主義経済、20世紀後半から21世紀初頭までの新自由主義は現在もう人類の正義ではない。人間の幸福が経済の発展に比例しなくなったとき、何が我々を幸せにするのか?知的好奇心に駆動され真理を探究したり、芸術を通して人間の創造性に驚嘆したりするのは僕の幸せにつながっているが、そういった”趣味”では方向性を決められない、もっと大きな枠組み、国家単位ではどうだろう。それに対する一つの答えがSDGsであるように思われる。我々個人の周囲の環境(すなわち住環境、労働環境に加え、時間的空間的生物学的に離れた人の幸福=開発途上国の人々・次世代・異性や多様な性的嗜好の幸せ)が整えば、我々はより幸福に人生を送ることができるだろう、というのである。確かに、これからの人類の向かうべき方向性として、正統であるし説得力もある。
今日ようやく、SDGsがなぜ今取り沙汰されるのかという動機を見出すことができた。

ただ、SDGsを解決することによって幸せになるのは地球の自然でなく人間である、という点には自覚的でありたい。植物にとってみれば二酸化炭素が多い方が生命力は増すし、恐竜があそこまで巨大化し繁栄したのは、気候が今より10度近く温暖だったためらしい。低い酸素濃度の中十分な酸素を取り入れるため、気嚢という器官を発達させた。これは今の鳥類とも共通している。植物の光合成が支配的になったために二酸化炭素が減り過ぎて赤道まで凍った時代もある。地球史を見れば、その時の環境に適した種が生き延びそれ以外が絶滅するということは(億年のタイムスケールでは)日常茶飯事であった。
結局、人類はSDGsをもって高尚な目標に到達した訳ではなく、種の存続安寧と繁栄という一生物としての本能に従って努力を重ねているにすぎない。

こういう実学を疑問視したり、厭世的で人間を相対化する自分の考えはいかにもscience学生っぽいなとも思う。現代の経済学では、どのようなことが議論されているのだろうか。