Chikuwaのつぶやき

クラシック音楽、言語、ドイツ、物理など、雑食性です

反・民主主義論 佐伯啓思(新潮新書)

民主主義と民主政治はどこまで人間の生活を幸せにできるのか。

学校の歴史の授業では、「国民の意思」が政治に反映されなかった時代との比較を通して、今の民主政は優れている、大切にしなければならない、と習う。でもその限界を考える機会が少なすぎるせいで、「民主主義は絶対、最高だ」と信じ込んでいる人が多い、と説く。とても勉強になる本だったので、内容が気になる方はぜひ読んでみてください。

大衆とは...相互に相手のいうことを真似しあい、どこかで聞いてきたもっともらしい話や、あるいは、ちょっとした情緒的なフレーズに飛びついてそれを政治的意思だと思い込んでいる巨大な集団です。そして、彼らは、自分の情緒や利益が現実の政治の場で実現していないと感じたとたんに、主権者の権利として、下克上を起こすことが出来ると思っている。

民主主義とは、...他者排除と自国民の同質性の優越に基づくほかありません。自国中心主義を前提としている。(p.105)

「国民の意思」が正しいなどという理屈はどこにもない。同様にまた、手続きを踏んだ議会の決定であるから正しい、という理由もありません。暫定的に正当だというだけなのです。議会での決定が間違っていたかもしれない、という自己省察を放棄してはならないのです。(p.146)

根底にあるものは、自由や民主主義という価値の絶対化が、人間のとどまるところを知らない我欲と驕りをたきつけてしまう公算が大手ある、ということです。それは人々を、どこまでいっても驕り高ぶった、しかし、いつも不満タラタラの存在にしてしまうでしょう。...あのソクラテスが民主主義を批判したのは、それが過度の自由を与えることで人間を野放図なまでに我欲へと陥れると考えたからです。それを抑えるものがあるとすれば、ただ「真理」へと向かう「知」への敬意だけだとソクラテスはいった。(p.197)

アメリカ合衆国を立ち上げた連邦主義者たちは、...民主主義に対してはずいぶんと警戒的だったのです。...だから、連邦政府を創出するという連邦主義には、ある点で、人民による政治参加をうまく避ける意図があったのです。各州の代表者などによる代表政治は、ある種のエリートによる討議によって物事を決定するという点で、民主主義に対する警戒感からでているのです。(p.215)

1829年のジャクソン大統領就任から、大規模な選挙キャンペーンで大衆を動員し大統領を選出するスタイルが始まった)

自由な経済競争やIT革命やグローバル金融などによって共和主義的精神も宗教的精神も道徳的習慣も打ち壊しながら、民主主義をうまく機能させるなどという虫のよい話はありえないのです。(p.218)