音楽家と共鳴すること。ストリーミングサービスを考える
料理人としての音楽家
音楽を料理に例えることがよくある。音楽が料理なら、音楽家は料理人だ。歴史をたどってみると、ハイドンやモーツァルトは王様や貴族に仕える宮廷料理人(それ以外に音楽家が収入を得る方法があまり無かった)で、ベートーベン以降の作曲家は地域の人気レストランの料理長のようなものだった。オーケストラやピアニストは彼らのレシピに従って、コンサートという形で大衆に美味しい料理を提供していた。20世紀後半になると、レコードやカセットテープ、CDが出てきたおかげでレストランに行かなくても、家で繰り返し何度でも料理が楽しめるようになった。さらにウォークマンやiPodの登場によって外出中でもそれは可能になった。
このように形式は大きく変わっているのだけれど、一つ変化していなかったことがある。「自分で食べたい料理を選んでそれにお金を払う」という側面だ。王様も貴族も大衆も、自分が好きな料理や料理人にピンポイントでお金を出してきた。
音楽ストリーミングサービスの功罪
2010年代に急速に普及した音楽ストリーミングサービスがそれを大きく変えた。このサービスは定額全種類食べ放題のようなもの。ストリーミングサービス企業からアーティストにどのようにお金が行っているのかよく知らないが、五万とある食べ放題料理の一つを作ることに、料理人たちはやり甲斐を感じるんだろうか?聴衆がストリーミングサービスに動いているから、アーティスト達もそれに対応しなければいけなくなっているのではないかと想像している。
芸術家はお金を儲けるために仕事をしているわけではないが、彼らが生きていくためには収入が必要なわけで、そのお金は人々の「心が動かされた、支援したい」という気持ちから生まれるべきだと思う。だから定額食べ放題にされるのは悲しいことだし僕は使っていない。
ライヴやコンサートに行くことは、生の音を楽しむというのはもちろんあるのだけど、会場に姿を見せることによってそんなアーティストたちに「自分はあなたたちの音楽に共鳴しています」ということを伝えることでもあるんだと思っている。